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青木 昭「時代の空気」(1988~1990)

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内閣府経済社会総合研究所『バブル/デフレ期の日本経済と経済政策』(2010)
「日本経済の記録 時代証言集」(オーラル・ヒストリー)
青木昭(あおき あきら)、元日銀理事、元日本証券金融社長、1931年~2019年12月20日心不全で死去
日時: 2010年3月16日(火)10時5分〜11時35分
場所: 日本証券金融株式会社会議室

【岡田】私は、ブラックマンデーのとき証券会社の調査部にいまして、目の前で株価のボードが真っ青になって、ランプが全然つかなくなるのを見てしまいました。あのときのことを思い出すと、おっしゃる通り、一方では、失業率が3%を超えて、日本経済は円高不況でまだまだ全然ダメという雰囲気があって、金利引き上げなんていう話にはならないという声がありました。同時に、他方、それでは低金利が永久に続くというシナリオの背景には何があるのかと債券部の連中に聞くと、アメリカは結局ダメだから低金利を維持せざるを得ない。それで日米の金利差を維持するために、日本の低金利も永久に続くと。そういう日米経済の状況、要するにアメリカがこのあと復活してくるのであれば金利が上がって、金利差がもし一定であったら日本の金利も上がるのだから、低金利が永久に続くという論は全くナンセンスだという話になるわけですが、当時は誰もそうは思っていなかった。日銀の内部では、日本経済はまだ当分ダメねという話と、アメリカはもっとダメねという話と、どちらの雰囲気が強かったでしょうか。

【青木】アメリカがダメねということでしょうね。おそらく1987年の終わり頃から、日本の経済界にもだいぶ自信が出てきたのではないかと思うんです。政府が総合経済対策を出したのは1987年の上期です。かなり大きな金額の総合経済対策です。だから、まだ不況期だと思っていた人は結構いました。地価がどんどん上がっていることも目に見えているので、それに対して何かやったとしても、たいしたことはできない、警告に過ぎないよ、という感覚ですね。日本の経済界に、本当に日本経済は強くなったんだ、という感覚が生まれたのは、1988年の後半ぐらいではないでしょうか。※1987年5月に政府が決めた経済対策は一般に総合経済対策でなく緊急経済対策と言われている。

【岡田】1988年は、健全な成長が続いているという雰囲気が極めて強かったですね。

【青木】そうなんですね。だから、1988年は日本全体に自信が出てきて、非常に健全な経済がうまく拡大しているという自信が、政府のほうにもあったし、日本銀行にもあったわけです。それから、一般経済界にもそういうものが出てきているものですから、これを何かチェックするというふうな感覚が薄いことは事実なんですね。

【岡田】1988年のある段階で日本経済に自信がすごく強くなりましたね。

【青木】そう、すごく強くなりました。

【岡田】これはマネタリーポリシーとは関係ない強さである。ストラクチュラルな強さである。横っ面を少しぐらいぶん殴ったって平気だから、この際変なバブルをつぶしてしまってもどうっていうことないという雰囲気があった。日銀の知り合いと話をしていたら、その人の上司が、「株価なんか半分になったって日本は全然へっちゃらだ。この際気にしないで徹底的にガンガンやったほうがいいんだ」と盛んに言っていたと聞きました(笑)。日本経済は強いから、ぶん殴っても平気だと思っているような人が、あの頃実は急激に増えたのではないか。

【青木】急激に増えたことは事実ですね。今はどういう本だったか忘れましたが、その頃の新聞の論調を拾った本で見たことがありますが、非常に強気だったと思いますね。・・・日本銀行も含めて日本は、バブルというものが崩れたときにどれぐらい大きなマイナスが起こるかということについて、非常に実感がない社会だったということがあると思いますね。

【原田】1988年秋頃から、そろそろ金融を引き締めてもということになってきた。

【青木】バブルのことが心配ならもうとにかくやらなきゃダメですよ、という意識になってきたということですね。

【原田】政府もそういうことをだんだん望むようになっていったのではないかと思います。

【青木】そうですね。

【原田】1990年3月には金融機関の土地関連融資の総量規制をしていますので、1989年には政府も何かやらないといけないという認識になっていたはずです。ですから、当然、1989年には日銀が引締めをしてくれるならしてほしいというのが政府の認識だったと思います。

【青木】はい。

【竹中】上げるときには、大蔵省との瀬踏みといいますか、そういうことはどういう感じでおやりになったかというのはご記憶にありますか......。

【青木】大蔵省のほうも、いやあ、そろそろやっぱりバブル警戒というのはやらなきゃいかんな、という感覚になってきていて、銀行局などはそういう感覚があったと思います。

【原田】銀行局は、銀行がとんでもないことをやっているということをある程度つかんでいたので、そういうこともあってということでしょうか。

【青木】そうですね。

【原田】それで、1989年5月に2.5%から3.25%にされています。普通は0.25%ずつですが、0.75%上げた、3倍上げたというのは、そういう強いメッセージということでしょうか。

【青木】まあそうですね、上げ遅れたことに......。

【原田】上げ遅れたから、今度は3倍上げなければいけないという発想だったわけですね。

【青木】そうですね。

【岡田】それが、運悪くすぐに湾岸戦争が始まっちゃうんですよね。

【青木】そうなんですよ。

【原田】湾岸戦争でインフレになるのではないかということもあって、さらに上げるということがどんどん続いていって、今度はバブル崩壊になっていくわけですね。

【青木】そうですね。

【原田】非常に長期の金融緩和が続いたあと、非常に急速な引き締めをしたからバブルの生成も大きかったし、バブルの崩壊も大きかった。後知恵ではそういうことになると思いますが、そういう見方についてはどう思われますか。

【青木】バブルというのは崩壊を始めたら、緩やかに崩壊が続いていくのか急激な崩壊になるかは別として、崩壊するところまで崩壊してしまうのではないでしょうか。

【原田】崩壊するしかないものであって、崩壊するのもやむを得ない、と思っておられたわけですか。

【青木】そうですね。崩壊によって金融機関にある程度のダメージが出るのもやむを得ない、という感覚ですね。

【原田】1989年10月には理事を退任されるわけですから、そのあとのことについては感想をお聞きするということになります。崩壊して金融機関が程度ダメな状況になっても仕方がないという認識で日本銀行を退任されたということですね。そのときに、これほどダメージが大きくなる、あるいはバブルの崩壊がこれほど大きくなるということは予想されていましたか。

【青木】実は、非常に大きいものだと今さらのように思いましたね。ただ、日本はこういうことに対する施策というものがこれほど用意されていない国だったのか(笑)という気持ちは、非常に強かったですね。

【原田】預金保険機構もありましたし、銀行に公的資本を入れることはどうせパニックにならなければできないのだから、制度は既にある程度はあったと言う方もいらっしゃいますが。

【青木】一番典型的にあらわれたのは住専問題です。住専問題の非常にくだらない議論から、結局公的資金を金融機関の救済に使うべきでないというような状態が、ある期間ですけれどもあらわれちゃって、大蔵省などもそれを前提にして行動せざるを得ないことになってしまったというのは、ちょっと予想外というか......。バブルになったら大変だということはわかっていて、バブルが破裂したら誰かが救済しなければならないというのは、いわば本で読む常識です。だから実感がないにしても、公的資金が使えないというようなことが考えられるかねという......(笑)。

【原田】ただ、住専の頃は大銀行にはまだ含みもありました。そういうものがあるのになんで公的資金なんか注入するのだということになる。丸裸になってどうしようもない状況になるまで公的資金なんか注入できないという方もいらっしゃいます。確かに実際に銀行があんなに含みを持っているというのは日本しかないわけです。

【青木】なるほどね。

【原田】ほかの国は、不良債権をつくればすぐに終わりになってしまうわけです。終わりになってしまって、預金者が列を成すということになれば仕方がない。だから公的資金を注入するということについて国民の合意が得られるのであって、日本の銀行が特殊だから、公的資金が注入できない。丸裸になる前にそんなことはできないと大蔵省銀行局の方がおっしゃっていました。私もそれは正しいかなと思いました。

【青木】まあそういうことはあるかもしれませんね。