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FRB view と BIS view(再論)

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「現代の金融政策」(2008年)日本経済新聞出版社 p.445 定価(本体6,000円+税)
「中央銀行」(2018年)東洋経済新報社 p.758 定価(本体4,500円+税)

白川方明「中央銀行」(2018年10月25日)

白川方明「中央銀行ーセントラルバンカーの経験した39年」(2018年10月25日)東洋経済新報社
第6章 「大いなる安定」の幻想

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私が定例的に出席していたBISやOECD等の金融政策運営の専門家会合でも、米国の住宅価格の急激な上昇の背景や金融政策の対応のあり方は毎回のように議論されていた。会合では欧州や日本の出席者が米国住宅価格の急激な上昇に懸念を示すのに対し、米国側の出席者がそうした懸念を一蹴するというのが、ほぼ毎回の議論のパターンであった。

代表的な住宅価格指数であるケースシラー指数で名目ベースの住宅価格を見ると、2000年1月の水準を100とした場合、ピーク時の2006年7月には206.52を記録し、6年間で約2倍という急速な上昇であった。住宅価格の上昇と住宅建設のブームは、特に、アリゾナ、カリフォルニア、フロリダ、ネバダ等の各州で著しかった。

米国側の出席者の当時の主張は以下の3点に要約される。

第1は、米国では全国レベルでの住宅バブルは発生したことがないこと。アラン・グリーンスパンFRB議長が住宅価格の上昇についての議会証言で、地域的な「フロス」(froth)は生じているがバブルは生じていないと述べたのは2005年6月9日のことであった。「フロス」というのはシャンパンの泡のようなイメージである。
第2は、バブルであるかどうかの判定は事前には難しいというものである。仮にバブルであることが判定できたとしても、金融政策で対応しようとすると、政策金利を著しく高い水準に引き上げる必要があり、実体経済活動を過度に抑圧してしまう。というのも、住宅価格は基本的には将来の賃料の割引現在価値だからである。
第3は、仮にバブルであったとして、バブル崩壊後に中央銀行が金融政策を積極的に緩和すれば、経済の大きな落ち込みは回避できるというものである。

(p.192)
2005年6月29-30日のFOMC

上述の議会証言が行われた3週間後の2005年6月29日、30日に開かれたFOMCでは、初日の大半の時間が「住宅価格の評価と金融政策」というテーマで行われた討議にあてられた。FOMCの議論の全体的なトーンはグリーンスパン議長の証言と同様に楽観的である。現在、当時の議事録を読んで、後知恵のバイアスを当然反映したものとならざるをえないことを断ったうえで感想を言うと、議論の焦点が圧倒的に住宅価格水準の評価に絞られていることに驚く。問題の本質は日本のバブル経済と同様、資産価格ではなく債務であったが、この点に関する認識は弱い。当然のことながら、この時のFOMCからほぼ2年後に顕在化するシャドーバンキングやグローバルな資本移動の問題はほとんど議論されていない。

こうした米国側の主張の背景にある考え方は、たとえバブルであっても、バブル崩壊後の金融緩和政策の有効性に対する大きな自信である。この考え方に立つと、最も重要なことはバブル崩壊後に中央銀行がいかに積極的な金融政策を実行するかどうかに尽きることになる。

この文脈で日本のバブル崩壊後の低成長がしばしば取り上げられ、その原因のひとつは大胆な金融緩和政策への転換の遅れであると診断されていた。米国側の出席者の自信は、2000年代初頭のITバブルを崩壊の影響を速やかに乗り切ったことにも支えられていたと思う。

ITバブルと日本のバブル、あるいは2000年代半ばの米国の住宅バブルの最大の違いは、債務の積み上がりの有無である。過剰債務こそがバブル崩壊後の経済の展開に大きな影響を与えるが、このことは、当時はあまり意識されていなかった。私はこの時のFOMCの議事録を読みながら、既視感を覚えた。1980年代後半の日本の議論と、起こったこともそれに対する中央銀行の反応もよく似ているからである。そして、すでに日本のバブル崩壊後の低成長という貴重な先例が存在したのに、FRBのように優秀なエコノミストを擁した組織でなぜこの教訓が活かされなかったのかという素朴な疑問が残る。結局、それだけバブル崩壊後の積極的な金融緩和政策の有効性に対する信頼が強かったということであろうか?

(p.194)
「大いなる安定」(The Great Moderation)という言葉に象徴されるマクロ経済運営に関する楽観論が頂点に達したのが2004年から2007年であった。

この2000年代の先進国の「大いなる安定」と日本が1980年代後半に経験した大規模なバブルは多くの点で共通していた。第1に、成長率が高く、物価上昇率は概して低水準で安定していたこと。第2に、不動産価格が大きく上昇したこと。第3に、債務が著しく増加したこと。米国に:おける住宅ローンはその典型であるが、レバレッジ(借入を梃子として実物資産や金融資産への投資を増やすこと)が著しく拡大した。第4に、経済の良好なパフォーマンスを正当化するストーリに対し、人々が自信を持つようになっていったこと。「ニューエコノミーの到来」はそのひとつである。

自信は民間経済主体だけでなく、政策当局者や経済学者、エコノミストの間にも広がっていった。当時の主流派経済学の政策思想は、一言で言うと、中央銀行が物価安定を目標にして金融政策を運営すればマクロ経済は安定するという考え方である。私は物価安定の重要性を十分認識しているが、この政策思想には強い違和感を持っていた。しかし、当時の米国経済をバブルであると確信を持って診断していたかと問われると、そこまでの自信はなかった。事後的に見て私が認識できていなかったことのひとつは、シャドーバンキングの拡大であり、もうひとつはそれとも関連するが、グローバルな資本移動の果たしていた役割であった。

(p.195)
2005年8月に開かれたカンザスシティ連邦準備銀行主催のジャクソンホール・コンファレンスの議事録を読み返すと、半年後に退任を控えたグリーンスパンFRB議長の金融政策運営に対する賞賛の声で満ち溢れていることに驚く。

(p.196)
バブルに対する米国の金融政策の対応は、事後対応で臨むことの有用性が主張される。バブルはつぶそうとするな。崩壊してから後始末をすればよい。当時、国際会議でしばしば日本の政策の失敗が取り上げられ、私は非常に複雑な気持ちでこの議論に参加していた。一方では日本の不良債権問題への対応の遅れに強い苛立ちを感じていたが、他方で、日本の経験に照らして積極的な金融緩和をすればバブル崩壊後の低成長は防げるという議論には到底賛成できなかったからである。・・・人間は後知恵でしか学びえないと言われるが、後知恵であっても自らが実際に経験しない限り、知恵は共有されにくいことを感じる。2009年に出版されたケネス・ロゴフとカーメン・ラインハートの有名な著書のタイトルである「今回は違う」(This Time Different)の表現を借りると、「われわれは違う」という思考の罠から脱することは難しいように感じる。

(p.197)
当時、私が共感を覚えていた考え方は、BISの幹部、アンドリュー・クロケット(総支配人)、ウィリアム・ホワイト(チーフ・エコノミスト)、クラウディオ・ボリオらの表明する考え方であった。彼らは、物価が安定していても資産価格が急激に上昇するともに債務が大幅に増加する状態を放置すると、やがてバブル崩壊を通じてマクロ経済に深刻な影響を与える危険性を、繰り返し孤独なまでに警告していた。そうした事態を防ぐためには金融の規制・監督が重要であることは言うまでもないが、彼等は金融引き締めも排除すべきではないという立場であった。「物価安定で十分か?」と題するホワイトの論文はそうした主張を端的にあらわしていた。要約すると、バブルに対し、FRB viewは「事後対応」(mop-up strategy)、「後始末戦略」(clean-up the mess strategy)を主張するのに対し、BIS viewは「事前対応」、「風に立ち向かう戦略」(lean against the wind strategy)の必要性を主張するものであった。

(p.200)
金融政策万能論の強まり

2000年代半ばは金融政策万能論とも言うべき議論が頂点に達する時期となった。バーナンキ理事の講演では「大いなる安定」をもたらした要因として、①構造変化(在庫管理技術の向上、金融市場の洗練化、グローバル化の進展等)、②マクロ経済政策の改善(特に金融政策)、③幸運の3つを挙げたうえで、「私の見解は、金融政策は「大いなる安定」のもちろん唯一の要因ではないが、おそらく重要な原因(source)であったというものである」と述べている。バーナンキ自身は決して金融政策万能論を主張したわけではないが、現実の米国経済が良好なパフォーマンスを示していたこととも相俟って、現実には金融政策万能論の影響が強まっていった。マクロ経済学の世界でも、2003年に行われた全米経済学会の会長講演において、シカゴ大学のロバート・ルーカス教授は、「恐慌予防の中心的問題は実質に解決された」という、自信に満ちた発言を残している。

金融政策万能論の時代は、グリーンスパン議長が神格化されていくプロセスと重なった。米国の高名なジャーナリスト、ボブ・ウッドワードが2000年に同議長に関する著書 Maestro(マエストロ)を公刊したが、このタイトルは中央銀行総裁が経済を巧みにコントロールしているという世界観に拠っている。インフレショーン・ターゲティングを主張する人も、金融政策がこの枠組みにもとづいて運用されれば自動的にマクロ経済の安定が保証されると主張していたわけでは決してないが、良好なパフォーマンスが長期にわたって続いたことから、結果的には金融政策万能論を強め、中央銀行は遂に理想的な金融政策運営の枠組みを発見したかのような捉え方をされるようになった。金融政策万能論を理論として支えていたのがニューケインジアン経済学であり、それを計量モデルとして表現したのが動学的確率的一般均衡モデル(DSGEモデル)であった。

DSGEモデルは複雑な経済を線形の方程式の体系として表現している。従来の計量モデルとの比較では「ルーカス批判」に耐えられるように構築されており、政策シミュレーションができるという点で、多くの中央銀行や国際機関でも開発され、現実に用いられた。日本銀行でも2000年代以降、Quarterly-Japanese Economic Model (Q-JEM) 等、用途に合わせていくつかのモデルを開発した。

しかし、当時使われていたDSGEモデルには大きな欠陥があった。最も大きな欠陥は金融セクターが実体経済に影響を与えるメカニズムがほとんど組み込まれていなかったことである。経済は「代表的個人」の集合にすぎず、債権者と債務者のように異質な主体が存在することも取り込まれていなかった。また、線形モデルであるため、ショックが均衡からの小さな乖離にとどまっている限りは分析できるが、バブルや金融危機といった非連続的な変化の影響は分析できないことも大きな欠陥である。

これらの欠陥にもかかわらず、政策当局や学界でこのモデルが多用されていた最大の理由は、金融システムの果たす役割の重要性についての理解が欠けていたためと思われる。私はニューケインジアン経済学やDSGEモデルの依拠する経済観に対し違和感を持っていたが、他方で、日本銀行の政策当事者やエコノミストが、世界で使われている計量モデルという一種の「共通言語」を理解していないと海外のカウンターパートとの会話が成立しにくいことも、国際会議出席の経験等を通じて認識していた。そうした観点から、調査統計局や企画局のエコノミストが進めるDSGEモデルの開発に対し決して後ろ向きのスタンスはとらないようにしつつ、それを使ったシミュレーション分析の結論や限界にも注意を払っていた。