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鈴木淑夫「資産価格上昇と金融政策」

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内閣府経済社会総合研究所『バブル/デフレ期の日本経済と経済政策』(2010)
「日本経済の記録 時代証言集」(オーラル・ヒストリー)
鈴木淑夫(すずき よしお)元日銀理事 1931年10月12日 生まれ
日時:2010年1月19日(火)13時55分〜15時10分
場所:鈴木淑夫自宅

【鈴木】日銀のこの頃に実際に政策に携わっていた人もずいぶん亡くなっているんだけど、生きている人も必ずしも僕みたいに「いいよ」って言わなかったでしょう。

【竹中】かなり断られています。

【鈴木】三重野〔康総裁〕さん。いちばん聴かなきゃいけないのは、澄田〔智総裁〕さんは亡くなっているから、三重野さんなんですよね。それから、あの頃の国際金融担当理事だった太田〔赳〕さんという方がやはり亡くなっているんですね。太田さんがもう本当に中心のところにいたんですよ。彼が毎回、澄田さんも三重野さんもあまり海外へ行かなかったから、太田さんがBISの総裁会議に行っていたのね。そこで海外の意見を聞いて、それから、GやG7の時も、太田さんが付いていっているんですね。良い意味でも悪い意味でも、太田さんの影響力はものすごかったですけどね。もう亡くなっちゃったでしょう。そうすると、本当にいないんですよね。三重野さんがいまはまだ話せないというと、あと、国内の政策の担当は、島本〔礼一理事〕さんは亡くなっているし、島本さんの次は玉置〔孝理事〕さんだな。千葉銀行頭取の玉置さんも亡くなったでしょう。その次が青木〔昭理事〕さんですよね。青木さんは生きていらっしゃるんだよね。それから、そのへんから次は福井〔俊彦総裁〕君に飛ぶんですね。僕の同期の深井〔道雄〕君は理事4年間のうち3年ぐらい大阪にいて、本当のところをあまり知らないんですね。だから、そうすると、青木さんに声をかけた?

【原田】青木さんにはかけていないです。

【鈴木】青木さんに声をかけてごらんなさい。青木さんは日証金の社長、会長をやって、いま、顧問か何かをやっているかな。日本証券金融のね。そんなものですよね、本当のことを知っているのは。あとは、だから、福井君ですよね。福井君はね、実力総務部長だからね。理事を飛び越えて三重野さんとつながって動いていた面がありますから、理事になる前からかなり三重野さんの手先で動いていたね。だから、福井君は声をかけてみた?

【原田】声はかけましたが、断られました。日銀のほうでヒアリングをすることになっているからだそうです。

【鈴木】福井、三重野が断るのはよくわかるな。青木さんが何と答えるかな。

【原田】日銀のほうでも、オーラルヒストリーをなさっているので、そちらで答えるからということで。

【鈴木】まだ出していないけどね。準備しているんですかね。金融研究所が中心になってね。そんな訳で、あまり答える人がいなくて、申し訳ないね。重原〔久美春金融研究所長〕君なんかはもう全然OECDにいたから実際の動きは何も知らない。

【原田】間接的に情報を得ておられた。

【鈴木】彼は特殊な立場だからね。OECD のああいう立場だったから、日本銀行からもそうだけど、ほかの大蔵省や何かから情報を得ていた可能性があるのね。だから、政府内部の動きを僕らよりは知り得る立場にいたでしょうね。だけど、実際に政府と日本銀行とどういうやり取りがあって、どうなっていたか、なんていうことは全然知らないですね。僕の立場は、一つ、外には言っていなかったけど、1986年から1988年、理事になるまでの間は理事待遇だった。ただの局長じゃなくて、理事待遇の金融研究所長です。だから、普通の局長よりも情報は入っていたんですね。特別に出席してくれと言われた政策会合がいくつもありますから。

1987年10月19日 ブラックマンデー

プラザ合意後の協調介入と協調利下げはブラックマンデーまではうまくいっていた
アメリカと日本の長短金利差の縮小を目的としていた

【原田】はい。最初に、プラザ合意(1985年9月22日)後の協調介入と協調利下げについてお聞きしますが、ドルが下落して、それは目的どおりだったと思いますけれども、行き過ぎて、下落を抑える協調介入になったわけです。そういう各国の対応を鈴木先生はどう評価されているのですか。

【鈴木】これは、最初は非常にうまくいったと思って喜んでいたんですね。というのは、協調して、不胎化しない介入をするということによって、かなりドル引下げの効果が出てきたし、それから、この時、まず目標にしたのは、長期金利差を縮小しようということなんだね。アメリカと日本は、プラザ合意の時、5%ぐらい長期金利差がありました。それを縮小しようということだから、まず、こっちが先に利下げするわけにいかない。向こうが利下げしてくれる。で、向こうの利下げでマーケットに金利の先安感が生まれて、長期金利が下がっていってくれる。それがうまくいって、次の年には、1986年に入ると、長期金利差 2%ぐらいまで縮みましたね。

僕らはそれを見て、非常にうまくいったということで、僕らのほうも、少しずつ利下げをしたけど、あくまでも長期金利差が再拡大しないように十分注意しながら下げていったんです。ドイツも同じことです。だから、そういう不胎化しない介入と長期金利差の縮小によってドル安誘導しようというやり方がうまくいっているという感じで、最初の1年間ぐらいは過ぎていましたね。それで、1986年に入ってからは、日本でもドイツでもちょっと景気が悪くなったので、我々の国内の政策目標との関係でも利下げしなきゃいけないようになってきたんだけど、幸いにして、その利下げをやっても、アメリカのほうもどんどん下げてくれているものだから、長期金利差は縮小しない。マーケットは金利の先行き感で、アメリカのほうが上がっちゃう、あるいは、日本・ドイツが下がっちゃう、そういうふうに考えなかったものだから、こっちの長期金利も下がっていたけど、長期金利差としては拡大しない。だから、この1986年までの協調政策というのは非常にうまくいったなと思っています。「協調利下げ」と書いてあるけれども、協調利下げを上手にやらなきゃという意識は1986年に入ってから。最初はもう専ら不胎化しない介入でやろうとしたのね。で、だんだんとこっちも利下げしないと、こっちが不況になって、そうすると、為替に対して逆の影響を与えちゃうからね。こっちが不況になると。だから、こっちも利下げしなきゃというようなことでやって、協調介入、協調利下げの両方がうまくいっているなという意識が1986年に入ってから出てきて、ずっといったわけですね。だから、この頃、日本銀行の「円卓」(まるたく)、理事以上の役員会ですね。僕も理事待遇だったから時々出ていました。その雰囲気は、うまくいっているという雰囲気でしたね。で、おかしなことが起きてきたのはブラックマンデー(1987年10月19日)からなんですね。

金融政策というのは、早めに小幅に動かすのが基本
ブラックマンデーの引き金は日本とドイツと両方の金利の先高期待だった

【原田】そうですね。それで、おっしゃったように、うまくいったかに見えたわけです。その後、ドイツの市場金利高め誘導で「ブラックマンデー」が起きたと言われていますが、そういう西ドイツの政策、あるいはこれがブラックマンデーを引き起こしたという説について、どう考えておられますか。

 【鈴木】非常にうまくいっていたんだけど、1986年終わりから1987年初めにかけて、これはうまく行き過ぎて、ドル安に歯止めがかからないかもしれないという心配が出てきたのね。マーケットの先行き感も、相場のエクスペクテーションも、これはちょっとこのままやっていると、ドルがまだまだ下がるぞと、行き過ぎるぞという心配が出てきて、このルーブル合意(1987年2月21日)というのは明らかにドル安誘導打ち止めの合意なんですね。打ち止めの合意をしたわけです。

で、打ち止めの合意をしたのはいいが、打ち止めということになると、ドイツも日本も利上げするとますますおかしなことが、逆の効果が起きちゃうということなんですが、この1987年を通じて、だんだん日本もドイツも内需がしっかり立ち直ってきたんですね。

だから、対外的な協調と国内政策の政策上の矛盾がはっきり出てきたのが1987年の中頃からです。で、その結果、こんな景気がしっかり上昇してきているのに、こんな超低金利を、2.5%なんていう超低金利を続けていると行き過ぎが起こるから、金融政策というのは、早めに小幅に動かすのが基本ですから、これは一つ早めに小幅に利上げをしようかという気分になってきて、ドイツもそういう気分になっているということが、BISの会議や裏の打ち合わせでわかったんですね。

だから、ドイツもやるぞと。じゃ、我々も年末に向けて利上げの環境をつくっていこうということで、公定歩合を上げるのは年末だけど、日常の金融調節を通じて、コールレートを少し高めに誘導していったわけですね。マーケットにもそれを教えた。これで先行き感は、いままでの利下げ、利下げから利上げというふうに変わってきた。マーケットにもそれを知らせて、それで、本当にこの時12月に日本銀行は公定歩合を上げるつもりでした。12月に公定歩合をあげるつもりだった。だから、秋から高めに誘導して、そういうことをマーケットに教えておいて、ショックにならない程度に小幅に上げようとしていたのね。

そしたら、ブラックマンデーが起きたわけですね。だから、引き金は僕は日本とドイツと両方の利上げというか、金利の先高期待だったと思います。それで、ドイツと日本の両方の金利が上がれば、またドル安だというエクスペクテーションが起きたわけね。それで、このブラックマンデー。この本質は、ご承知のように、要するにお金がニューヨークから逃げたということですね。だから、トリプル安になったわけ。三つ全部下がったということは、資金が逃げたということです。どこに逃げたかというと、ドイツや日本のほうへ逃げたわけですね。これでもうびっくりして、ちょうどこのトリプル安というやつは大恐慌の引き金の時と同じような現象ですから、これを放っておいたら大変なことになるぞと。で、ご承知のように、大恐慌の時はみんな自分の国からの金の流出を防ごうとか、あるいは為替を守ろうとかということで、それが起きた時に、緩和するんじゃなくて、逆に締めるんだよね。だから、連鎖的に履き違えて金融を引き締め景気が突っ込んじゃうわけだけど、そのことを我々は十分学んでいるんだから、これは一つなりふり構わず緩和をしようということは、夜を徹して電話連絡です。この電話連絡の中心人物は太田さんなんですよ。というのは、澄田さんも三重野さんも英語でやれないから、誰か通訳を入れないといけないでしょう。だから、そんな悠長なことをやっている暇がないから、太田さんが総裁・副総裁の権限を持ってやりましたね。で、もちろん同時に、あっちの大蔵省の財務官も向こうの財務省とやっていたわけね。こっちは連銀やブンデスバンクとやっていたわけね。それで、もうとにかくこれは果敢な不胎化しないドル買い介入と同時に金融緩和だと。で、利下げだと。いままでの高め誘導から180度転換して、低め誘導だということを打ち合わせて決めて、最初に開いたのは日本、東京市場ですからね。そこでまず日本が果敢にやって見せたわけですね。で、あと、ヨーロッパが開いて、ヨーロッパも同じことをやって、とりあえずドル安を止めた。さあ、次の日のニューヨークはどうなるかしらと、本当に僕らは固唾を呑んで見ていたわけですね、真夜中なんだけど。そしたら、ニューヨークは止まったわけね。あっ、しめたと。で、その本(『日本の金融政策』岩波新書)にも書いてあるように、24時間で金融恐慌、世界大恐慌を抑えられた。悪夢が消えたと。それで、よかったなと。

そこまでは「よかったな」なんだけど、そこからが問題でね。ブラックマンデーの収束の後の政策協調が問題なんですよね。「よかったな」の次の話。

【原田】収束については、鈴木様は「政策協調」の勝利と言われていましたが。

【鈴木】そうそう。あそこまではまさに「政策協調」の勝利だった。

【原田】ブラックマンデーの収束の後の政策協調の話へ行く前に、こういう経験というのはいまでも生きていて、その後の危機でも、非常に有益な教訓となっていると思われますか。

【鈴木】そうですね。リーマンショックの時もブラックマンデーの時と似たようなことをやったんですけど、夜を徹して電話をかけてね。最初に開くのは日本ですからね。で、こうやって止めたという感じはありますね。あのブラックマンデーの時ほど大規模じゃないけどね。似たようなことをやりました。だいたいあのブラックマンデーの時の「政策協調」がうまくいったもので、その後はもうかなり頻繁に何かあると真夜中でも電話でやっていたんですね。だから、太田さんの仕事って本当に気の毒でね。夜寝られない仕事なんですよね。

【原田】なるほど。昼間も働かないといけないわけですからね。

【鈴木】昼間も働かないといけない。昼間はその様子を刻々今度は向こうの明け方叩き起こしてヨーロッパに教えてやるわけで、それで、ヨーロッパで準備させるわけですから、大変な仕事ですが、これはもう大いにその後活かされましたね。

政策協調の成功と永久低金利神話の誕生バブルはブラックマンデーから始まった

【原田】話は戻りますが、よかったのだけれども、それが問題だったというところになります。

【鈴木】そうです。よかったんだけど、それが問題になってね。僕は「永久低金利の神話が生まれた」とわかりやすい言葉で本にはあちこち書いているんですが、あの時に民間銀行の人たち、それから、証券会社の人たちが何て言っていたかというと、「これで日本銀行は永久に利上げはできない」と。

「なぜなら、当分の間ドルは弱いだろうから、その間は利上げはできない。つまり、日本の金利政策は金縛りにあった」と、こういうことを堂々と株の解説者や何かも言うわけね。それで、株価を煽るわけです。不動産業者は不動産業者で、「地価はまだまだ上がりますよ」と言うしね。それで、不動産業者と銀行が結託して、それこそ晴れているのに傘を売りつけたわけですよ。で、もう一般のサラリーマンまでちょっと小金を持っていれば、銀行がやって来て、「ワンルームマンションを買いませんか。投資しませんか」とこうやったのね。じゃんじゃん貸し出しを増やして、そうなると、今度企業のほうもすごく先行き感がルーズになっているというか、リスクに対する感覚が薄くなっちゃって、かなり後で振り返ってみれば、無駄な投資をやたらめったら、いわゆるバブルの塔があちこちに建ったわけですね。そういうことが始まった。

だから、何となくバブルは1986年から始まったなんて言っているけど、僕はもう厳密にね、「そうじゃないよ。ブラックマンデーのところから始まったよ」と言っているんです。その前から始まったような言い方は間違っていると思う。なぜなら、ブラックマンデーのあとの対応が日本とドイツと違ったが故に日本でバブルが発生し、ドイツはバブル発生を抑えたんだからね。それまでの推移は同じですからね。

だから、バブルの発生の時期を何となく漠然と1986年という言い方をするのは間違いで、1987年のブラックマンデー以降の永久低金利の神話が生まれたが故に、箍の外れた行動を金融機関と企業がとった。それで、バブルになった。

対外的には政策協調、対内的には物価安定で利上げが出来なかった
資産価格にも中央銀行は注意を払うべきだった

【原田】そのあとのブラックマンデーが落ち着いたあとの金融政策では、日本はもっと自国優先でそんなに緩和を続けなくてもよかったとも書かれていますが。

【鈴木】それがね、ここから先がいちばん喋りたくないところなんですよ、三重野さんたちは。というのは、ここで深刻なジレンマになったわけね。というのは、景気はやはり強いわけですよ、ブラックマンデー以降も。その前から、1987年から強かったんだから、1988年なんかは強いわけね。統計を見ればわかるようにね。こんなことをやっていたら、いずれ物価が上がって、景気過熱になっちゃうだろうと。何度も言うけど、金融政策というのは早めに小幅に動かすのが大事で、遅れて大きく動かしたら、ドンとショックを与えるから、かえって経済を攪乱するんですが、小幅に早めに動かすのが金融政策の要諦だから、やらなきゃいけないんじゃないか、少し金利を上げなきゃいけないんじゃないかというのが国内派の考えですね。だから、当時僕も理事で、同期の理事が営業担当の理事の佃〔亮二〕君というのがいてね。佃君から、いかに金融機関は箍が外れちゃって滅茶苦茶なことをやっているかということを聞いて、これは何とかしなきゃいかん。このまま放っておいたらえらいことになるんじゃないかと佃君と2人では話していたんですが、それを堂々と「円卓」で議論しようとすると、たとえばちょろっとそれらしきことを言うと、二つの観点から反論されちゃったね。

一つは、もう太田さんを中心として、とにかく日本が金利を上げたから、ブラックマンデーの再来になる。日本が金利を上げないと言うから、国際金融はいま平穏になっている。こんな時にまた日本が引き金を引くようなことをしては、政策協調を日本が乱すことになるから、それは絶対だめだと。それで、それを太田さん1人がそんなことを言っているぐらいならたいしたことないんだけど、そういう立場に、宮澤〔喜一〕大蔵大臣が完全に立っていたね。政府側というのは、僕らから見ると、宮澤さんなんだよね。で、宮澤さんはもうG5、G7で国際協調をして、その重要性を百も承知しているから、日本がこれを崩すのはとんでもない話だというふうに言っていたわけですね。それをピンピンと感じていたのが澄田さんと三重野さんだからね。宮澤さんのそういう意向を。だから、ちょっと「円卓」で、ちょろっと出すぐらいのことはしたけど、全然。何をばかなことを言っているかと。何をばかなことを。

それで、もう一つもっともらしい意見があって、それは物価が上がっていないじゃないかと。これは痛かったね。物価が上がっていないじゃないか。で、これに対して、その時僕は斉々と理論的に反論できなかった。

それはあとになって僕は本に書いていますが、物価が上がってなくても、資産価格が上がっていれば、中央銀行はそれに注意を払わなければいけない。時間の問題で物価に来るし、それから、物価が上がらなくても、資産価格がうんと上がって、どしゃんと下がれば、資産バブルの発生と崩壊で、経済は激動しちゃいますから、だから、資産価格にも中央銀行は注意を払うべきだと。僕はこの理論武装がしっかりできていなかった。反省。で、日本銀行を辞めたあとのこのへんの本(前掲)には、それがはっきり書いてあります。それは僕は〔ジェームズ・〕トービン(元ハーバード大、イェール大教授、ノーベル経済学賞受賞者)の資産の一般均衡理論を引用して言ったんですよ。トービンの資産の一般均衡理論を考えてみろと。金融政策の効果波及経路というのはあらゆる資産の価格が変動して最後に実態面に行くわけですからね。資産価格の変動というのは、トランスミッション・メカニズムのなかで重要な中間目標、中間的な指標なんだよな。だから、金融政策の目標であるはずはないが、注意を払うべき中間的な指標であることは間違いないのね。それを僕はその時点で堂々と「円卓」で言えなかった。これは僕の理論武装の遅れですね。

日銀の独立性が全くなかった

【原田】ただ、それでも何となくおかしいという感じの方は、ほかには、大蔵省、政治家、あるいは日銀でも、そういう方はいらっしゃらなかったんですか。

【鈴木】僕は政府の中は知りません。残念ながら。僕のほうから見ると、大蔵省は一丸となってやはり政策協調を乱すようなばかなことを日銀はしないでくれよという感じが強かったですね。それで、ここでちょっと嫌らしいことを言うと、当時の日本銀行法では、総裁の首切り権と、それから、政策指示権を政府が持っていたんだよね。1942年(昭和17年)の戦時立法でナチス・ドイツの中央銀行を真似してつくった法律ですから。戦後、木に竹を接ぐように政策委員会という項目は入れたけど、政策指示権と首切り権はそのまま残しちゃったからね。そういうものがあるものだから、たとえば宮澤さんがある酒席で隣にいた日銀理事のOBに「いまの日銀は三重野が後ろから澄田を羽交い絞めにして動けないようにしているんじゃないのか」と。つまり、もっともっとね。もっと緩和して欲しかった。

【原田】宮澤さんはそういうことをおっしゃっていたんですか。

【鈴木】それを何となくこっちが、そう言ったって、そんな無茶にはできないという感じを持っていることを宮澤さんは感じ取っていてね。そういうことを言ったんですよ。で、そういう話が僕の耳にも入ってくる。そうするとね。

【原田】そうすると、澄田さんや三重野さんはもうビンビン感じて。

【鈴木】おお、ビンビン感じている。それで、もっとえげつない話が、こんなことをやっていたら、澄田さんの次に三重野さんは総裁になれないかもしれないという、そういうニュアンスまで伝わってきたね。これがやはりいちばん僕らにとって嫌らしいことでしたね。いまの日銀法の下ではこんなことはないですよ。いまの日銀法ならこんなことはないけど、昔の日銀法の下で何となくそういう情報を流されると、とにかく法律に政策指示権と首切り権があるものだから、ちょっとこっちはヘジテイトするんですね。

だから、そういうことで自重していたものだから、ちょっとその気持ちを象徴するような動きが、三重野さんになった途端、1週間も経たないうちにぱっと公定歩合を上げたでしょう。あれはもういかにイライラしていたかと、僕らが。だから、澄田さんがお辞めになって、三重野さんになった途端に1週間経たないうちにぱっとやる。あれは歴史上ないんだって。日銀総裁が代わった途端に公定歩合を上げたのは。普通、そういう情勢なら、前の人がやる。そんなふうで、イライラしながらも、国民に対して大変申し訳ないことながら、いわゆる国際派の主張が完全に支配しちゃったね。

【原田】普通は、国際派は弱いものだと思うのですが。

【鈴木】この時ばかりは、国際派というのは即政府であり、政府だけじゃないのよ。即アメリカなんだよ。アメリカに歯向かうのかという話。

【原田】そうすると、ブラックマンデーの処理を非常にうまくやったということで、国際派の権威も高まったでしょうし、またそれを支持する政治家、宮澤さんという極めて有力で政策通と言われている方の支持もあって、その主張がずっと通っていたということですか。

【鈴木】そうですね。

【竹中】ただ、その時に、日銀の中でも結局引き締めということで意見が集約できるような状況ではなかったということですよね。

【鈴木】もちろん。

政策協調のためにマネーサプライ管理が崩壊

【竹中】よく、上げたかったけれども、大蔵省が反対したからだというようなことを言う人もいますけれども。

【鈴木】それは、外から観察していて大雑把に言えば、そういうことだけど、正確に言えば、日本銀行の中でも、ここで上げるわけにはいかないという結論だったんだよね。多数意見というか、「円卓」の意見はそうだったから、総裁・副総裁もそれに乗っていたわけです。で、「円卓」を構成している僕らがそれをひっくり返すことはできなかったね。で、ちょっと象徴的なのは、僕のことを言うようでおこがましいんだけど、これはミルトン・フリードマン(元シカゴ大教授、ノーベル経済学賞受賞者)がちゃんとどこかで言っているんだけど、「鈴木が辞めた途端にマネーサプライの増加率はパンと跳ね上がった」と。これはその通りなんだよ。

【原田】まさにマネーサプライの2番目の「コブ」(マネーサプライの前年同期比を見ると1980年代の後半にトレンド的な伸びより高い二つのコブが現れる)。

【鈴木】うん。2番目のコブをポンとつくったのね。ということは、だから、日銀内部でも、僕は最後まで、辞める1989年の7月まで、マネーサプライを増やしたらいかんのだと。必ず後で何か出ると。たとえいま物価が安定していても、将来物価が上がるとか、何か経済の攪乱が起きると言い続けて辞めていったわけ。

そうしたら、やれやれと思ったのかね。残念ながら、マネーサプライの伸び率は、僕が辞めたあと、パンと跳ね上がりましたよ。フリードマンはそれをグラフにして、鈴木が辞めたあとに跳ね上がったと言ったらしいね。

【原田】そのようなコブができてしまったということにはどう思われますか。

【鈴木】だから、それはもっと緩和しろ、もっと緩和しろという国際派の圧力があったけれども、そうそうやってはいけないんじゃないかみたいな感じも国内派にあって、辛うじてマネーサプライの伸び率はそんな酷く高まらない程度に抑えていたのよ、1989年の前半までは。

それが僕が辞めちゃったために、そういうことを「円卓」で言ったり、僕は支店長会議にマネーサプライと物価と成長率のグラフを全員に配って支店長に説明したりしていましたからね。これは明らかに相関があると。だから、すぐに物価に跳ねなくても、このグラフでわかるように、あの頃は6ヵ月ぐらいの短いラグだったね。だんだんと成熟経済だと長くなるんだけどね。そういうことを僕は支店長会議でも、これはもう総裁、副総裁、政策委員なんかの前で理事報告としてやりましたから、そういうやつがいなくなっちゃったわけだよね。

【原田】マネーサプライ重視というのは1975年の調査月報にも書いてあった。

【鈴木】そう。これを執筆したのは僕ですよ。で、いちばんバックアップしてくれたのは前川〔春雄〕副総裁。で、森永〔貞一郎〕総裁は前川さんの上へフワッと上手に乗っておられたからね。だから、初めて僕の個人的な主張が日本銀行の正式の公式見解になったのがこの論文ですね。

【原田】ところが、だんだん、日銀が、マネーサプライの安定的な管理の意味を否定するようなことを言うようになりますね。

【鈴木】それは都合が悪いから。だって、マネーサプライを守ろうとすると、政策協調というのは崩れるじゃないの。しかも、彼らに都合のいいことには物価が上がっていないものだから。上がっているのは資産価格だけで、物価は上がっていないものだからね。それで、マネーサプライ重視政策というのが崩れちゃったのね。1989年の後半、僕が辞めたあと崩れました。見事にマネーサプライの増加率は高まっている。

【竹中】当時、国内派というのはよくないのかもしれませんけれども、景気の監視と金利の関係に注視されていたのは鈴木先生以外にその佃さんという方ですか。

【鈴木】いや、それは、マネーサプライを強調していたのは僕1人だけど、こんな低金利政策、そして、銀行や証券の前のめりの姿勢を放っておいたらえらいことになると言っていたのは、国内派には何人も居ます。理事では佃、青木なんていうところはそうですね。それから、三重野さんに僕は個人的に意見具申していますよ。三重野さんもその1人だから、「心配だな。だけどな」と言うわけよ。「だけどな、アメリカさんが相手だからね」と。とにかくアメリカさんとこっちが交渉するんじゃなくて、アメリカさんの圧力が政府経由でこっちにかかってくるんだからね。

日本は自国優先で考え、それが世界経済のためになるという主張をすべきだった

【原田】でも、結局、そのあとバブルが崩壊して日本経済が停滞したことは世界経済にもよくないことであったわけですから、鈴木先生が書かれているように、まず、日本のことを考えても良かったのではないか。

【鈴木】そうです。

【原田】日本経済の安定が結果的に世界経済のためにもなると説得しようと考えられた方はいらっしゃらなかったのですか。

【鈴木】その時点ではね。残念ながら、1988年、1989年の時点ではね。

【原田】鈴木先生は資産価格も配慮すべきだと言われていたけれども、日銀の中ではいなかったということですね。ただ、マスコミ的というか、大衆的には、株はともかく地価が上がってけしからんというのはもう既にありました。

【鈴木】けしからんとは言うけど。

【原田】地価の暴騰はけしからんという声はあった。

【鈴木】まあ、上がり過ぎじゃないかというのはあったでしょうね。だけど、それは日銀の金融緩和のせいで、金融政策がけしからんという論調はなかったんじゃない?

【原田】そうですね。

【鈴木】あれば、もう本当に助け舟で、僕は引用したけど、そういう論調はないでしょう。

【原田】そうですね。確かに金融政策で地価が上昇するというのは、大衆的な感覚ではぴんと来ない話かもしれませんね。

【鈴木】そう。金融緩和の行き過ぎがいけなくてこうなっているという論調はマスコミのどこにもないんです。

【原田】そのころはマスコミにはなかったかもしれませんね。

【鈴木】まったく援護射撃ゼロね。

【原田】地価が上がっていてけしからんという議論は非常にあった。

【鈴木】そうそう。「地価が上がっていてけしからん」と書いている新聞がその横で「日銀は国際音痴だ」なんて書いているわけだよ。「国際的な配慮が足りない」ということを書いているわけよ。

金融政策と資産価格の関係(トービンの資産理論)の理解を誰もしていなかった

【原田】そうすると、そもそも金融政策と資産価格という関係について、もちろんマスコミもそうですけれども、政策担当者、学会なんかもあまり認識がなかった。トービンの資産理論をみんなが理解していなかったということなのでしょうか。

【鈴木】そうでしょうね。トービンの資産の一般均衡理論から言えば、当然資産価格というのは金融政策のトランスミッション・メカニズムの中間目標だということに理論的になるんだけど、それは理解してなかったですね。だいたいトービンの資産の一般均衡理論なんて、ちゃんと理解している人は少ないんじゃない?まあ、日本で最初にトービンのお弟子さんで持って帰ったのは浜田君ですよ。浜田宏一(イェール大教授)君が1967年頃だったかトービンのマニュスクリプトを日本に初めてトービンの許しを得てコピーを持って帰った。それを僕はまたコピーをさせてもらって勉強したんです。そうでもしなきゃ、トービンの資産の一般均衡理論のきちんとした文献なんていうのは、イェールの図書館に行かなきゃ読めなかった。彼は出版するのが嫌で、なかなか出版しなかったからね。トービンが最後の最後まで出版しなかった。最後に出版したのかな、あれは。トービンのマニュスクリプトといえば、金融論の学者の間では通用する。だけど、それはマニュスクリプトなんだ。原稿なんだよ。イェールの図書館に行かなきゃない。でも、短編的な論文の中には、その思想は出ていましたからね。トービンの論文の中にね。

【原田】小宮〔隆太郎東大名誉教授〕先生の古い論文でも、まず資産価格が上がって、それから、物価につながるということが書かれています(小宮隆太郎「昭和四十八、九年インフレーションの原因」東京大学『経済学論集』1976年4月、に「貨幣量の増加の影響は、一つには土地・株式等の既存資産の価格上昇となってあらわれるであろう」とある)。また、トービンも、マネーの増加は資産価格を上げるということを書いています(James Tobin, ”A GeneralEquilibrium Approach to Monetary Theory”, Money, Credit andBanking, 1969)。もっとも小宮先生はその後、金融政策についての考え方をかなり変えられましたから、そのときは違う見方をされていたかもしれませんね。

【鈴木】1980年代のこの時期に小宮さんはそんなことは言っていない。1970年代の中頃に、小宮さんと僕と共同で英語の論文を書いたんですよ。ニクソンショックと第1次石油ショックのあとね。このインフレは何だったんだろうと。それで、その時の僕の主張に、完全に小宮さんは同調してくれて、その後、僕も「いいですよ」と言ったから、小宮さんはそれを小宮さんの1人の名前で『経済学論集』に出しているよね。だけど、最初の論文は2人の名前で出しているのね。だから、小宮さんは確かにそういう議論を1970年代にしている。だけど、1980年代に言っていないです。この時に言っている人は誰もいなかった、残念ながら。

1988年に小幅に公定歩合を上げるべきだった

【竹中】そういった1988年の間は金融政策が緩和された状態が続きます。つまり、公定歩合が2.5%に据え置かれたままでした。その後、1989年5月に 2.5%が 3.25%に引き上げられます。

【鈴木】そうそう。

【竹中】この引き上げについて何か印象に残っていることはありますか。

【鈴木】これはついに引き上げたのは、ドルがちょっと強くなった。それで、今だと言ってやった。ところが、それまでにドイツは4回公定歩合を上げているんだよね。だから、僕はもう残念なのは、どうしてドイツに学んで日本も一緒にやらなかったか。ドイツはたいした玉ですよ。平気でちょこちょこと上げているんだね。ドイツが上げたのをここにちょっとメモしておいたけど、1988年の7月、8月、1989年の1月、それから、4月。で、日本銀行はそのあとの5月に初めてやっているわけだよな。で、ドイツは6月にもまた上げていますよ。

【竹中】早いですね。

【鈴木】だから、小幅に早め早めにトントントントンやっている。

【竹中】ドイツの動きを見ていて、ドイツもやれるんだから、日本もいこうという話にはなからなかったのでしょうか

【鈴木】もちろん僕はそういう主張をした。そうしたら、それに対して、太田さんが何と言ったかというと、「君、為替市場の需給がわかっておらんね」と言ってね。要するに、マルクの方が弱いんだというんだよ。円の方が強いという。だから、ドイツが利上げして大丈夫だといって、円の金利を上げたら、やはりもう1回ブラックマンデーがあると言うのね。

確かに円はこの時期マルクより強いんだよ。強いけどね、僕はもう、後講釈だけど、ドイツが上げている時、同じように、1988年に0.25%ずつ、ちょこっちょこっとやるのが大事だったと思うよ。それはなぜ大事かというと、0.25%なんていう幅なら為替相場にそんなに響かないけども、人々のエクスペクテーションには響くはずなんだよ。永久低金利の神話を信じている人に対して、違うよと。金利を日本銀行は動かせるんだよということを示す。これは逆にマーケットから見ると、ドイツは上げているのに、日本は上げない。いよいよもって、日本は。

【竹中】永久神話ですね。

【鈴木】もう金縛りにあって金利を上げられないんだと。

【竹中】そうですね。当時、アンカー論というのがありましたね。

【鈴木】そうそう。何か日本がアンカーだなんて、とんでもない話なんだけどね。

遅れて大幅に動かすという金融政策のタブーを行った(理想は、早めに小幅に動かす)

【原田】ずっと上げなかったわけですが、今度はバブル崩壊の過程で、1990年になるとどんどん上げていくわけですね。

【鈴木】そうそう。だから、1989年12月に三重野さんになったわけね。それで、就任直後の1月、1週間経たないうちに上げているんですね、1回。それで、そのあと、どんどん上げていくわけね。あっ、ごめんなさい。12月に上げているのよね。1989年12月に三重野さんは就任直後に上げている。それから、翌年の3月、8月で、8月の6%はピークだな。大幅に上げているのね。だけど、これはさっき僕が言ったように、金融政策で最もやっちゃいけないこと。遅れて大幅にやったんだね。だから、バブル崩壊が激しく起きたのね。いちばんやっちゃいけないことをやった。

【原田】少しずつ動かさないといけないというのは、金融政策当局者の常識というか、そういうものだと思うのですが、にも関わらず、三重野総裁が急に変更されたのはなぜだったのでしょうか。

【鈴木】それはもうこれだけ遅れたらね。地価と株価の上昇がもう燎原の火の如く拡がっちゃって、これはとにかくドンとショックを与えなきゃ止まらないと。で、三重野さんはまさかこんなガラガラと地価が下がると思わなかった。地価にも、永久値上がり神話があったでしょう。この地価の神話を簡単に崩せるもんじゃないと当時は思っていたね。金融政策はそんな強いと思っていなかった。

【竹中】ああ、そうですか。

【原田】金融政策の力が強いと思っていなかった。

【鈴木】思っていなかった。こんな強烈に効くと思っていなかった。だから、大幅に急いでやったのね。

【原田】でも、既に株は下がっていました。地価の情報を得るというのは難しかったかもしれませんけれども、株はもう大幅に下落していました。

【鈴木】そうそう。

【原田】でも、構わず、どんどん上げていたという印象を持ちますが。

【鈴木】だけど、株はわりと金融政策が敏感に響くんだけど、地価はとにかく戦後ずっと一貫して右肩上がりだからね。ちょっとやそっとのことじゃ崩れないよと思っていたね。僕も思っていたけど、三重野さんははっきりそうだったね。

強烈に効いた土地の総量規制(土地神話が崩れるとは予想していなかった

【原田】上がっている時は、金融政策と資産価格、土地価格の関係は、マスコミ的には全く理解していなかったと思いますが、下がる時には、「平成の鬼平」とかとマスコミ的に言われて、金融を引き締めたから下がったというイメージが生まれていたと思いますが。

【鈴木】うん。だけど、正確に言うと、日本銀行の金融引き締めだけであんなことは起きなかったですよ。強烈に効いたのは、土地の総量規制。あれがもう無茶苦茶に効いたわけね。銀行貸し出しがストップしたんだもの。だから、土地を持っている連中は泡を食ったわけね。で、投げ売りになったのね。あれのほうが短期的には効いていますよ。

【原田】そうすると、総量規制で下げたんだから、金利のほうはどんどん上げなくてもよいのではという感じはなかったのですか。

【鈴木】総量規制と金融政策と足並みを揃えなきゃ、この頑固な土地神話は壊れないだろうぐらいに思っていた。

【原田】では、壊していいと。

【鈴木】壊していいと。とにかく土地神話を1回ぶっ壊さなきゃ。

【原田】で、それが金融システムにも波及するものだとは考えておられなかったのですか。

【鈴木】そこのところをそんなに酷く来るとは思っていなかった。だいたい壊れないだろうと、これぐらいやっても。

【竹中】壊れないだろうと思っていたのですか。

【鈴木】それは僕は思ったことがありますよ。三重野さんが総裁で、土地が下がったほうがいいという意味の発言をしたんだよ。だけど、中央銀行の総裁が、資産価格が下がったほうがいいと発言するぐらい危険な話はないんだよね。これは金融恐慌の引き金になりかねないのね。裏を返せば、それぐらい三重野さんは、土地は地価は下がらないと確信していたのね。そのぐらいのことを言ったって下がらないと。

【原田】三重野さんは地価を下げようと思っていた。

【鈴木】下げたいけど、下がらないだろうと。だから、このぐらい言ってやれという感じだと思いますね。

【原田】ただ、もう既に、不動産会社は土地を担保にぎりぎりまでお金を借りていて、銀行はぎりぎりまでお金を貸していたことは、日本銀行の方はみんな知っていたわけですね。

【鈴木】そうそう。

【原田】そうすると、では地価が下がったら、これは大変なことになるというのは、普通は考えると思うのですが。なぜそう思わなかったのですか。

【鈴木】いやいや、地価が下がれば、それは大変なことになってね。で、いままでやってきた貸し出しの態度が間違っていたということは骨身に沁みてわかるだろうと。そのぐらいのレッスンを与えないと、この連中のこの箍の外れた態度は変わらないなというふうに思っていましたね。

【原田】ただ、三重野さんは、バブルの当時、副総裁として、箍が外れるのを黙認されていたわけですね。

【鈴木】まあ、どうしようもなかったんだよな。

【原田】どうしようもなかったんでしょうけれども。

【鈴木】だって、ある意味澄田さんが宮澤さんに羽交い絞めにされて決めてきちゃうんだもの。とにかくG5、G7の帰りに決めてきちゃうんだもの。

【原田】そうすると、むしろ自分が何もできなかった過去の体験があるからこそ、なおさらがんがんやってやろうということになってしまったということでしょうか。

【鈴木】そう。しかも、そのがんがんやっている三重野さんのことを、マスコミは何と言ったと思いますか。

【原田】いや、褒めていました。

【竹中】「平成の鬼平」と言われましたから。

【鈴木】そうでしょう。褒め称えたわけでしょう。だから、まさに三重野さんもやはりそれでいいんだなと最初のうちは思っていたと思いますよ。途中から、こんなに地価が崩れるとは思わなかった。これは危険だと途中から思ったでしょうね。だから、わりと早くボンボンと金利を下げ始めたでしょう。彼が下げた最初は1991年の7月に下げていますね。それからあとは、わりとポンポンと下げているのね。

【原田】1991年の頃には、どうも「鬼平」と言われて喜んでいたけれども、これはやはりまずかったんじゃないかというのはもう気がついた。

資産デフレの危険性(歴史派エコノミストの警鐘)

【鈴木】これはもうちょっと危ないと。何と言うかな、資産デフレ。

【原田】資産デフレ。デット・デフレーションにもなるのではないかと思い出したのですか。

【鈴木】そうですね。バランスシート・リセッション、資産デフレの危険性というか、それが起きかかっていると感じたから、急いで下げたんですね。で、やや横道にそれるけど、このことを早くから警告していた人がたった1人いるんだよ。こんなに金融緩和して、バブルを発生させたら、そのあと締めた時にえらいことになると。資産デフレになる。バランスシート・リセッション。それは吉野俊彦(元日銀理事)さんですよ。民間に居た大先輩がね、大先輩1人そういうことを既に1980年代終わり頃から書いていますよ。

【原田】歴史の教訓をよく考えておられるから。

【鈴木】彼は理論家というより金融史の大家だからね。明治以来の歴史の教訓を、特に昭和の金融恐慌をよく知っているからね。これは昭和の金融恐慌と同じことになる。危ないということは言っていますね。吉野さんのことについては、僕が刊行委員長になって、『追想吉野俊彦』というこんな分厚い本を出していますけれども、それを見ると、吉野さんが早めに言っていたということがわかりますよ。1冊、あげようか。簡単に手に入らないかもしれない。ところが、吉野さんは理論的に言わないで、1927年(昭和2年)の何月にこうだった、ああだったという史実を言うからさ。ついつい後輩は、なんだ、また吉野さんの歴史談義が始まったと思ったんですね。三重野さんや澄田さんは、吉野さんの議論には全然注意していなかったね。残念なことなんだけどね。いちばん最後に資料で、僕が解題を付けていますが、「歴史派エコノミストの警鐘」と。晩年の吉野さんは静岡新聞の論壇というところに定期的に寄稿していたのね。一般の人の目にはついていない。ここで議論しています。どうぞ、後でご覧になってください。

【原田】ありがとうございます。

日本の失敗に学んだヨーロッパ、学びそこなったアメリカ

【鈴木】それから、世界の中央銀行のサークルとしては、1990年代に入ると、ヨーロッパが割と日本の経験を学んで、資産価格に金融政策の運営上注意を払わなきゃいけないという議論を始めるんですね。いまの白川〔方明〕総裁が書いた『現代の金融政策』という分厚い本を見た? あの中にありますよ。あの中に面白いことが書いてあって、彼は理事の頃 BIS に頻繁に行っていましたから、ヨーロッパの中央銀行は資産価格に注意を払うべきだという議論なんだと。なぜなら、資産価格の変動というのは経済を激動させて、後で安定成長をぶち壊すから、物価がたとえ安定していても、資産価格が上がり始めたら、中央銀行はそれに注意を払わなきゃいけないという議論なんだと。それに対して、連銀は、FRB はそうではなくて、資産価格なんていうのは金融政策の対象ではないと。資産価格でバブルが発生して崩壊しても、アグレッシブな、果敢な金融緩和をすれば、それで大きな景気後退を避けられると。これは〔アラン・〕グリーンスパン(前 FRB 議長)の有名な言葉だけど、そもそも資産バブルなんて破裂してみて初めてわかるので、事前にわかるものかと。これがグリーンスパンを始めとする FED 流の考えですね。それで、結果は、今度出たわけね。果敢な金融緩和をやったけど、止まらない。とんでもない。いま世界全体が金融危機を始発点にする景気後退に入っているでしょう。だから、結果論としては、ヨーロッパ派が勝ったわけですよ。特にドイツやフランスはそれに注意を払っていたのね。それに注意を払っていなかったスペインとか、イギリスもちょっと失敗しましたね。アイルランドはその典型だけど、そのへんの周辺国は失敗していますが、ドイツとフランスはいまのヨーロッパ中央銀行の中核ですから。フランス銀行とブンデスバンクがね。そういう態度だったから、あそこはそんな酷いことになっていませんね。だから、それもちょっと白川君の本のそこのところを参照するといいですよ。そういう議論は日本のこの大失敗を踏まえて、世界の先進国の中央銀行同士の BIS の議論の中では盛んにやっていた。

【原田】日本もいまや、日本の失敗から学ぶという意味ではすごく学ばれている国にはなっていますね。

【鈴木】うん、そうそう。いや、だから、あまり大きな声じゃ言えないけど、日本の失敗からアメリカは学び損なったからこんなになっちゃったんだぞという感じは強く持っていますね。

【原田】ただ、ヨーロッパもかなり不良債権が多くて、処理も遅いので、あまり順調に回復しないのではないか。アメリカのほうが、回復が早いのではないかというのがエコノミストの予測の主流です。もちろんこれからどうなるかはわかりませんが。

【鈴木】それはおっしゃる通りで、ヨーロッパのほうが日本に似ていて、隠しながらのろのろやっているんですね。アメリカは大っぴらにバーッと開示して、その代わり果敢にやっているわけね。でも、傷の深さからいうと、アメリカのほうが深いかもしれないし、ヨーロッパは大変だといっても、中核にいるドイツとフランスはそんなに大変じゃないんじゃない?

【原田】ドイツの銀行もフランスの銀行も結構怪しげなことをやっていましたし。

【鈴木】それは周辺のハンガリーとか、中東とか、そういうところへ。

【原田】中東欧諸国への貸し込みとかですね。

【鈴木】そういうところに対する不良貸し出しね。

【原田】もちろんスペインやイギリスのほうがもっと酷いと思いますが。

【鈴木】酷いね。あれは国内で起こしているんですね。ドイツやフランスは周辺国に対する不良貸し出しだね。

【原田】バブル崩壊は金融引き締めも関係あるけれども、総量規制のほうが大きな効果があったというお考えですね。

【鈴木】そうですね。急激な落ち方はね。

財政構造改革と緊縮予算が不良債権処理を遅らせた

【原田】三重野総裁は気がついた。気がついたあと、もちろん金利はかなり下げていましたけれども、FEDがやっているような果敢な金融緩和というわけではなかった。その頃、不良債権はどのぐらい大きな問題と日本銀行は考えていたのですか。

【鈴木】いや、それは大変なことになるぞということはわかっていましたね。それで、1996年に住専問題を処理して、もうこれで不良債権の処理は終わったみたいなことを橋本〔龍太郎〕内閣が言っている時に、日本銀行は内心で冗談じゃないと。これは氷山の一角だよと。勘弁してくれと思っていましたよ。

【原田】そういうことはあまり政府や財務省に言っていなかったのですか。そんなもんじゃないですよと。

【鈴木】それは僕の今度の本、『日本の経済針路』に書いてあるけどね。去年(2009年)7月に岩波から出した本があるでしょう。あそこに書いてありますけれども、橋本政権が1997年の超緊縮予算を組んだでしょう。あの時にこんなことをやったら、不良債権問題は火を噴くぞということを官僚は誰も政治家に教えていないわけ。いちばんわかっていた大蔵省が。

それで、後で梶山〔静六〕当時の官房長官が後悔していた。俺たちは知らなかったと。こんな不良債権問題が深刻だとは知らなかったというんですね。それを隠して、財政構造改革法、あれを通すために全部伏せちゃって、本当のことを政府に言っていなかったのね。あとになって、橋本総理がその額に気がついて愕然としたという記事が朝日新聞に出ていましたよ。

ですから、問題はそのあとの政府、あるいは大蔵省のほうにあったと僕は思いますよ。大蔵省が把握していながら、本当のことを言わない。で、なぜ本当のことを言わないかというのはいろんな理由があるけど、一つは戦前に片岡直温蔵相が、窮地に陥っていた東京渡辺銀行の事を、とうとう破綻したと議会で誤って発言し、金融恐慌の引き金になったことがあるじゃない。だから。政治家に本当のことを不良債権に関して本当のことを言うのは危険だという感情が大蔵官僚にあったのね。

【原田】でも、大蔵官僚も自分で処理できる金額じゃないですね。まだ1兆ぐらいなら、予算をあちこちで誤魔化して少しずつやれば何とかなったかもしれませんが。

【鈴木】ところが、景気をよくすれば何とかなるという感じと、それなら、景気をよくすればいいのに、緊縮予算を組んじゃったんだからね。およそ矛盾しているんだよ。

先の僕の本にも書いてあるけど、1997年度は13兆円のデフレ・インパクトを持つ超緊縮予算を組んで、1997年度はゼロ成長になり、1998年度は1.5%のマイナス成長に陥った。橋本総理は、1998年の1月になって、不良債権の総額がそれまで聞かされていた額の3倍の76兆円であると大蔵省から聞かされて愕然としたというんだ(西井泰之「「橋本改革」はなぜ失敗したのか」朝日新聞2000年3月29日)。僕はあの時ちょうど衆議院議員で予算委員会で先頭に立ってそれを叩いたからよく覚えているんですけどね。それで酷いことになっちゃったんだ。だから、僕はあそこであんなことをやらなければ、あんな緊縮予算を組まなければ、もっとなだらかに、21世紀の初めにかけてもっとなだらかに調整できたと思いますよ。不良債権の調整ができたと思います。景気が緩やかに上昇する中でやれたと思う。あそこでダンと日本経済を叩き落したからえらいことになっちゃって、最後に竹中〔平蔵、当時金融・経済財政政策担当大臣〕さんが非常に乱暴な処理をせざるを得なくなっちゃったのね。

【原田】それから、1990年代の中頃からデフレになっていくわけですけれども、デフレであれば、当然資産価格も下がります。資産価格が上がって、物価が上昇するのと、今度は逆ですけれども、デフレになって、これは資産価格にも響いて大変だと、日本銀行は考えていなかったのですか。

【鈴木】あまり考えていなかった。つまり、逆方向の資産価格が下がり続けて、デフレが長続きしちゃう危険性というのはあまり考えていなかったんじゃないの。だけど、不良債権処理がまずいということは非常にイライラしていたけど、なにせこれはアメリカの場合はFEDがやれるけど、日本の場合は日銀の管轄じゃないからね。大蔵省と金融庁の管轄だからね。

【原田】大蔵省には、これは大変なことになるから、早くやる必要があるということは日銀からいろいろ言っていたのではないですか?

【鈴木】それは言っていたでしょうね。言っていたけど、財政構造改革法がいちばん大事だったんだから、当時、大蔵省には。それを通すためには、みんな黙れという感じで。あの頃、あなたはもう離れていた?

【原田】いや、役所におりましたが、下のほうで。どうなっていたのかはわかりません。こんなので大丈夫なのかとは思っていましたが。

【鈴木】でも、あの雰囲気は思い出すでしょう。

【原田】雰囲気はわかります。

【鈴木】あの時、とにかく財政構造改革法を。

【原田】いや、これは逆らったら、大変なことになる。

【鈴木】逆らったら、大変だという雰囲気はもう内閣府から何からみんなそうだったのね。

【原田】そうです。

【鈴木】だから、そういう中で真実は隠されちゃって、とんでもないことになったのね。

【原田】鈴木先生は1989年には理事を退任されているわけですけれども、その頃、このバブルが崩壊して、崩壊したあと、こんな大変なことになって、その処理にまたこんなに時間がかかるということはまったく思われていなかったのですか。

【鈴木】僕はこんなにかかるとは思っていなかった。この本の中にも書いてあるように、1990年代前半に一度景気は回復するんだよね。それも内需主導型で回復するんだよ。あの中で徐々に処理できると思っていた。1994、1995、1996年に回復していた。

【原田】回復していました。だからこそ財政構造改革をやってしまったのだろうとは思います。

【鈴木】そうそう。それはそうだよね。いや、だから、そこはあなたの母国(聞き手の原田は経済企画庁の出身)の問題だけど、ちょっと楽観的な経済見通しを政治家に出し過ぎたという感じはあるね。だって、こういう緊縮財政を組んだら、1997年から景気後退が起きるといくら僕が言っても、言うことを聞かないわけ、予算委員会の席上で。それで、あとになって、半年も経って、僕が言った通り、ダーッと落ちてきたところで、「どうしたんですか」と聞いたら、あの時、企画庁から、この緊縮予算を組んでも、1997年の4-6月期にちょっと落ちたあと回復してくると。たいした影響がないという経済見通しが出ていて、内閣はみんなあれを信用していたんだと。梶山さんがはっきりそう言った。そういうことも僕の本にはちょっと書いてあるよ。

【原田】橋本総理はこれで大総理になるという思いを抱いておられたようですから、みんなそれに何か言うことはできなかった。

【鈴木】だから、うまく乗っけられちゃったんだよ。

【原田】その思いに水を差すようなことは誰もできなかったのかもしれませんね。

【鈴木】そうそう。それはそうだと思いますね。でも、そういうふうにたきつけた張本人が賢い官僚たちなんだよ。

【原田】貴重なお話をいただきまして大変ありがとうございました。

【竹中】ありがとうございました。―

 

(追加)橋本内閣は、1997年度に超緊縮予算を執行した。消費税の3%から5%への引き上げで5兆円、特別減税の打ち切りで2兆円、医療保険など社会保障負担の引き上げで2兆円、計9兆円の国民負担増加と、4兆円の公共投資削減、合計13兆円のデフレ・インパクトを持った予算である。その結果、まず家計消費が落ち込み、続いて企業投資が沈んだ。1997年度はゼロ成長となり、1998年度はさらに1.5%のマイナス成長に陥った。これが2001年以降の小泉政権の経済運営に大きな影を落とすことになる。 鈴木淑夫「日本の経済針路」(2009年)岩波書店